東京イード・アル=フィトリ2024年

皆さん、こんにちは Salam Sejahterah

ご無沙汰しております!

こちらはイサムです

皆さん、ゴールデンウイークのお過ごしはいかがでしたでしょうか?

天気はあんまりにも不安定で、私が行きたかった「滝沢ダム」は次の夏休みに変えようがないはめになってしまいました。ゴールデンウイークの序盤に行く予定でしたが、曇か又は大雨で計画が台無しになってしまいました。残念極まりないが、次こそダムを見に行きます。

では、遅くなりましたが、4月10日に行われたイスラム教の祝日「ラマダン終えた勝利の日」あるいは「イード・アル=フィトリ」又は「レバラン」をインドネシア学校東京にお祝いました。

2024年のイード・アル=フィトリは、全世界で2024年4月10日に行われました。この機会に、東京にある「東京インドネシア共和国学校」でイード・アル=フィトリをお祝い、日本にいる同国人たちと共に「レバラン」のノスタルジアを感じることにしました。

イード・アル=フィトリには、ムスリムは当日の朝に特別な礼拝を行うことが推薦されています。一般的な礼拝とは少し異なり、追加礼拝が行われます。

以下は在日インドネシア大使館がお知らせしたイード・アル=フィトリの日程表です。

表によると、4回の礼拝が行われます。午前7時からは第1回が始まり、午前10時に第4回で終えます。これは、日本にいるムスリムに機会を提供するための対策であり、参加者の人数、移動距離、礼拝現場の広さ、そして日本での礼拝場所が限られているためです。

当日は、私は第1回の礼拝に参加しました。朝早く自宅から出発して、6時48分頃にインドネシア学校東京に着きました。

現場の庭からの人達はまだ指で数えるぐらいの人数のご様子だが...

建物内は既に人混みです。皆さんは朝早くか現場で泊まったのようです。隙間を探すのを一苦労でしたが、何故か懐かしく感じた私がいます。

礼拝が終え、スタッフに出口へ導かれたところ、庭は既に混雑していて、すごい光景でした。

建物内から見る光景です。

学校の庭から見る光景です。

学校に向かう路地から見る光景です。

目黒通りから見る光景です。

これらの画像は、午前7時57分の東京インドネシア共和国学校の現場の賑わいで、次の第2回の礼拝が始まる直前です。礼拝の順番を待つ列は目黒通りの角まで長く並んでいます。

おまけに、当日に目黒川の桜にも綺麗に咲きました。2024年のイード・アル=フィトリは桜に恵められていると実感し、インドネシアで経験出来ないので、本当にめでたい日です。

以上は今年のイード・アル=フィトリの祝宴日でした。来年の祝宴日に同じ桜が咲く頃になるといいですね。

では、また次回 Sampai Jumpa!

聖なる月「ラマダン」

皆さん、こんにちは Salam Sejahtera

 

こちらはイサムです。

「ラマダン」が訪れ、本日で22日目になります。再び日本で「ラマダン」に招いたが、過去は夏で日本語の勉強だけの一日でしたので、今回の「ラマダン」は寒くて、かなり手ごたえを感じました。

その為、今回の話題は聖なる月「ラマダン」について説明致します。

イスラム教の信仰に基づき、「ラマダン」は最も聖なる月であり、イスラム歴の9番目の月に当たります。イスラム歴は太陰歴である為、ラマダンの開始時は毎年11日ほど早くなります。「ラマダン」には、アッラーが初めて預言者ムハンマドに語りかけました。また、預言者ムハンマドが、メッカ市の郊外にある「ヒラー洞窟」へ定期的に行き、瞑想や自己反省を行っていました。

 

なぜ「ラマダン」はムスリムにとって特別な月なのでしょうか?

「ラマダン」には、預言者ムハンマドの奇跡として、人々への道標である聖典クルアーンが啓示された月です。同月に、タウラート(モーセ五書)、ザブール(詩篇)、インジール(福音書)など以前の聖典も啓示されました。

聖典の啓示されただけでなく、「ラマダン」に行われた全ての善行は、神が二倍の報酬を与えてくれるという信仰があります。その為、多くのムスリムがラマダンに善行を競い合い、共同での断食明けの食事、貧しい人への食事の配布、慈善活動などを行います。

(出典:Behind The News)

聖なる月ラマダンは断食と同義であり、日の出前に「スフール(Suhur/Sahur)」あるいは断食前の食事を伴います。一般的な見方では、「断食」は日の出から日没まで空腹と渇きを我慢することに限定されています。しかし、ムスリムによる「断食」は飲食中止に限らず、性的関係、悪質な行動や発言等の欲望を抑制する儀式です。その為、「断食」よりは「斎戒」の方が適切です。

(出典:IslamiCity)

斎戒はイスラム教の基礎の一つであり、世俗的な欲望や活動から自己を遠ざける儀式です。それは、有害なものや悪から自身を解放ことによって、魂や心を浄化することを目的としています。ムスリムは斎戒を行うのは、聖なる月ラマダンが自己規律、自己制御、犠牲、そして恵まれない人々への同情の実践であると信じているからです。

断食する義務は誰に適用されますか?

思春期に達したすべてのムスリムが断食する義務があります。しかし、断食によって困難を経験する可能性がある人々は、この義務から除外されます。これには、病気であるか旅行中の人、妊婦、授乳中の女性、月経中の女性、または断食するにはあまりにも弱いか病気の高齢者が含まれます。これらの人々は後日断食を振り替える必要がありますが、年齢または慢性病により断食が不可能な人々を除きます。代わりに、彼らは断食を怠った日ごとに貧しい人に食事を提供することができます。

(出典:Global Village Space)

子供たちは、思春期に達するまで断食の義務はありません。習慣的に、子供の断食は7歳から始まり、半日だけや週末だけの象徴的な断食を行います。これは、徐々に子供たちを訓練し、1か月間の一体感を養うことを目的としています。ムスリムコミュニティやモスクは、1日間完全に断食したり、1か月間のラマダンを完全に過ごした子供たちに象徴的な賞を与えることもよくあります。

 

聖典クルアーンにおける「ラマダン」と「断食」について:

 

“信じる者たちよ。あなたがた以前の者たちにも定められたように、あなたがたのために斎戒が定められた。それであなたがたも、畏れる者となるだろう”。

(聖典クルアーン第二章183節)

 

“[斎戒の]日数は定められている。しかしあなたがたのうち病の者あるいは旅の者は、[その間は斎戒せず、]他の日に定められた[のと同じ]日数を[斎戒しなさい]。[困難のために斎戒が]できなかった者たちは、代償として一名の貧しい者を養いなさい。誰であれ自らすすんで良いことをするなら、それはその者のために良いこと。しかしあなたがたのためには、斎戒がもっとも良いこと。もしあなたがたが、知ってさえいたから。”

(聖典クルアーン第二章184節)

 

“ラマダーン月は、人々の導きとして、また導きの明白な証と規範としてクルアーンが下された月。それゆえあなたがたのうち、その月に立ち会った者は斎戒しなさい。しかし病の者あるいは旅の者は、他の日に定められた[のと同じ]日数を[斎戒しなさい]。アッラーがあなたがたに求めるのは安楽であり、あなたがたが定められた日数をまっとうし、あなたがたを導くアッラーをほめ称えることであり、あなたがたに苦境は求めない。あなたがたは、感謝するようになるだろう。”

(聖典クルアーン第二章185節)

(日本語翻訳:東京ジャーミィ「クルアーン日本語読解」

 

以上は「ラマダン」の概念でした。「ラマダン」の終わりに、ムスリムは「イード・アル=フィトル」、または「断食明けの祭り」を祝います。子供たちには新しい服、お金、または贈り物が親、親戚、友人、さらには隣人から与えられるのが伝統です。特別な礼拝と儀式は祝祭日の朝に行われ、通常は屋外の広場や大ホールで、各地のムスリムコミュニティによって実施されます。次回は「イード・アル=フィトリ」についてご紹介します。

では、また次回 Sampai Jumpa!

イード・アル=アドハー

こんにちは、皆さん。Salam Sejahterah !

 

私「イサム」と再び本ブログに参上いたしました!

秋が寒いかと思ったら、予想される寒さと全く寒くなかった私です。

寒く無くて一安心ですが、防寒対策にこだわったのに、過剰な心配して損したと少々思ってしまいました。

 

さて、遅くなりましたが、今回はイスラム教の祝宴の一つである「イード・アル=アドハー(Eidul Adha)/犠牲祭」をご紹介したいと思います。

6月28~30日に世界中で行われたイード(祝宴)は、ムスリム(イスラム教徒/信仰者)が行う「大巡礼/ハッジ」の最終日であり、大きな祭典です。

 

「犠牲祭」という名前から怖いイメージを持たれるかもしれませんが、イスラム教の長い歴史と、敬虔な信仰が深く関係しています。

イード・アル=アドハーの歴史的背景には、信仰の父として有名な「預言者イブラヒム」の物語が関係しており、イブラヒムが苦悩に苛まれながらも神の啓示に従い、息子イスマーイールを犠牲にしようとしたことが由来となっています。

イスラム教の聖典コーランの「イブラハムという羊飼いがアッラーの命じる通りに息子を生贄として捧げようとしたところ、アッラーはその信仰の深さを知り、息子の代わりに羊を差し出させた」という話に基づきます。

犠牲祭はイブラヒムの忠誠心を称えるほか、動物を生贄として捧げ、神に感謝の気持ちを伝えるための祭典です。

 

お金に余裕のある人が、羊やヤギ、牛、ラクダ等の動物を買い、その肉を3つに分け、1つは自分や家族に、1つは親戚に、あと1つは恵まれない人達に配ります。

また、その肉を販売することは禁じられています。

 

私は渋谷区にあるトルコ風モスク「東京ジャーミイ」を訪れ、祝宴の礼拝をしました。

 

東京ジャーミイに着くと、第一礼拝の途中だったので、次の第二礼拝を待つことになり、とんでもなく長い列に並びました。

午前9時に第一礼拝が終わり、第二礼拝に向けて、並んでいた人たちが急いでモスクに入りました。

第二礼拝でこんなに多くの人がいるとは、思いもつきませんでした。第二礼拝が終わった後、また次に第三礼拝が行われると聞き、びっくりしている暇もなく、即モスクを出て家に帰りました。どれだけのムスリムが東京にいるんだと私が思いました。

 

上の画像を見ると、普通の礼拝のようで、特に印象はないかもしれませんが、日本社会の慣習に従い、平穏に礼拝・祝宴が行われました。

 

一方、インドネシアでの祝宴はムスリムが広場で礼拝を行ったようですね。

こちらはデポック市西ジャワ州の「Lapangan Sepak Bola Komplek Timah」で行われた様子です。広場でお祈りするのは宗教的に任意でありますが、多くのムスリムが集まることができ、費用がかからないという理由で昔からの慣習になっています。

 

国によってお祝いのやり方が異なりますが、世界中のすべてのイスラム教のムスリムに、生きるという意味を思い起こさせる祝宴です。

 

さて、次はインドネシアの犠牲祭の様子をもう少し見てみましょう。

インドネシアでは、捧げられる動物は牛が多く、羊またヤギは牛の4割です。理由は多くの人々に分配することができるからで、裕福な人からのものや地域の人々による共同出資のものなどがあります。

 

開催地は各地域の自治会が決定し、地元住民に肉が分配されます。

大勢の人が集まっていますね。犠牲祭は一般公開なので、見たい人は自由に訪ねてもOKです。

もちろん、訪れる理由は肉をもらうためですが、この祝宴のおかげで美味しい物を味わえて、イスラム教ではなくても、祝宴の祝福を感じられるでしょう。

 

皆さんにも祝福がありますように祈っております。

では、また次回。Sampai Jumpa Lagi !